時と存在はなぜ表裏一体なのか/SIG-AI人工知能のための哲学塾 東洋哲学編 第参夜「仏教と人工知能」レポート

存在は時であり、時は存在である

議論はニコ生でも盛り上がった

それでは、今回のテーマである仏教は、どのような時間概念を持つのでしょうか。実は仏教では時間論をそれほど重視しないと言われます。仏教では森羅万象を因果律を持った循環構造として捉え、人間は永遠に続く因果律の中でもがき苦しむが、修行によって煩悩を捨てれば(=悟りを得られれば)、そこから抜け出せると教えるからです。たしかに、人間がどんなに生まれ変わっても現世の苦しみが永遠に続くとすれば、過去も未来も意味を成さない……そのようにも考えられます。

もっとも「こうしたユニークな世界観を持つからこそ、仏教における時間概念は興味深い」と語る三宅氏。数少ない手がかりとして提示されたのが、道元が著書「正法眼蔵」で記した「有時の章」の内容でした。道元は「山も時、海も時、すなわち存在自体が時」であり、「存在と時は切り離せない」と論じます。なぜ、そういった解釈ができるのでしょうか。というのも、ここでいう存在とは客観的な事実ではなく、人間そしてあらゆる生物が、因果律の中で捉えた主観的な世界のことだからです。

ここで三宅氏は議論の接線として、ユクスキュルが提唱した「環世界」を引用しました。あらゆる生物は「感覚器による情報の知覚」→「中枢神経網での意思決定」→「身体を用いた行動」という情報の循環を行っている。そして、その過程の中で各々の生物は世界を主体的に認識しているという概念です。因果律の中で生物が捉えた主観的な世界とは、環世界の中で生物が認識した対世界(=中枢神経網の中で構築される主観的な世界)に他ならないというわけです。

そのうえで道元は「いったい、この世界は、自分を押し広げて全世界となすのである」と続けました。道元が指摘するとおり、世界が人間の主観によって形成されるとすれば、その世界は各人の経験や欲求、そしてコンテクストと無縁ではいられません。そして自分が生き続ける限り、そうして作られた世界は波紋のように次から次へと広がり、次第に減衰しながら、意識下に堆積されていくことになります。この積み重ねが生物にとっての、主体的な時間感覚に相当するというわけです。

このように考えれば、道元が唱える仏教的な時間感覚と、デリダのいう「差延」の類似性は明らかでしょう。三宅氏はこれらの議論をもとに、「時間とは物事を存在させる力であり、外界からの刺激や情報をもとに存在を創り出す力であり、物語を作り出す力である」とまとめました。「存在と時が不可分である」という考え方は、それだけを聞けば突飛なようにも聞こえます。しかし、人間(そして生物)を中心に世界を捉え直すことで、必然的に導き出された論理的帰結だといえるかもしれません。