IGDA日本の理事の一人,山根信二と申します.今回,レイン・ヌーニー著 『Apple IIは何を変えたのか: パーソナル・ソフトウェア市場の誕生』 (山形浩生訳, 福村出版, 2025)を出版社より献本していただきました.著者のゲーム史家としての活動に触れていたので,以下に書評します.
著者のレイン・ヌーニーは,GDC(ゲーム開発者会議)での活動でゲーム開発者の間でも知られているゲーム史家だ(彼女のゲーム史での貢献については,本書評の範囲外なので後編に独立した解説を書くことにする).その彼女の初の著作となる本書は,パーソナルコンピュータの名機「Apple II」とその時代背景についての本だった.その日本語訳が早くも発売されたので,本記事では主にゲーム史の視点からみどころを紹介したい.
本書の面白さ
本書はApple IIというパーソナルコンピュータが登場した時代をその背景やソフトウェア製品とともに描く.ソフトウェア製品ごとに章が分かれており,表計算ソフトVisiCalc,アドベンチャーゲームMystery House,ディスクバックアップツールLocksmith,家庭用ソフトThe Print Shop,教育ソフトSnooper Troopsと,章ごとに分野を変えている.読者は順番どおりに読んでも,好きな章から読んでも構わない(何度も出てくる人名は索引で引ける).それぞれの章で,オフィスソフト,ゲーム,セキュリティ,教育といった各ジャンルの製品が初めて世に出た時代について知ることができる.それぞれの産業で働く人にとっては,いまの産業が誕生した(商売が成立するかわからなかった)時代に触れることができるだろう.
特に,著者のゲーム史家ならではの視点は各章に出てくる.本書を読んだら「アタリ社の人脈抜きでシリコンバレーの歴史は語れない」と思うし,大ヒットした表計算ソフトの発売資金はワンボードマイコン用のチェスゲーム通信販売の売上だったとわかり「表計算ソフトが発売されたのはチェスゲームを買ったゲーマーのおかげ」とゲームファンは思うだろう.あるいは自宅起業したゲーム会社では当時から女性が育児しながら開発・出版していたりと,ゲーム開発者が社会を引っ張っている記述もところどころにあって楽しめた.だが本書はそれらの歴史的エピソードもさることながら,より大きなパーソナルコンピュータの登場を描いているので「それまでに無かった市場はどうやってできたのか」「広告は立派だけど,実際の市場規模はどうだったのか」「開発者はどのような経験にもとづいてそれまでに無い商売をはじめたのか」といった市場形成の転換期を描いているので,歴史ファンにも楽しめる本だ.
本書の独特な立場
これまでのアップルコンピュータ関連の歴史は,書き手が見聞きした同時代体験にもとづいて書かれていたが,本書は出版された文献や著者の独自インタビューをもとにして書かれており,その情報源も明記されている.つまり,本書は「AppleIIの同時代の証言」ではなく「後世の歴史家によって書かれた歴史」だ.そして歴史家らしく「情報源」を参考文献一覧や注に明記する.このことで,読者もまた著者と同じ当時の情報にアクセスして歴史解釈を再検証できるという,読者に対してフェアな書き方をしている.
本書はビデオゲーム史ではなくAppleIIとその時代背景という広くて大きなテーマを扱うものなので,著者にとっては専門外の話題も入っている.そして著者自身も「この本は…戦略的指導がなければ存在しなかった」「書こうと思っていた本ではなかった」(p.273)「(主にスペースの制約により)まだ単行本レベルの注目を集めていないソフトウェア」を選んで書いたと述べており(p.280-281),それまで研究してきたテーマとは異なる路線を戦略的に選んだことを明かしている.
巻末の「謝辞」によれば,この本を執筆するきっかけは,大学院生の授業「コンピューティングの歴史」を著者が担当したことからはじまっている(p.274).本書の「謝辞」にはこの授業を受講した大学院生たちへの謝辞もある.わざわざ受講生の名前をあげていることから,おそらく元になった授業科目は大学院生が一次資料を読んで考えを述べるディスカッション形式の授業だったと考えられる.ただし「大学院生の専門家未満の知見を聞いて正しい歴史を学ぶのに役立つのか?」と疑問に思う読者もいるかもしれない.だが現代の大学院生はApple IIの「正しい歴史」を学ぼうとしているのではない(8ビット時代について理解しても,彼らが将来の職場でそれらの歴史知識を役立てることは無い). 大学院生が過去の歴史を学ぶ目的は「正しい歴史」を学ぶことではなく,「自分が投資する時に騙されないため」だったり「天才の神話に免疫をつけておくこと」といった予防的な意味がある(この予防スキルを「クリティカルシンキング」と呼んで専門に訓練する大学もある.)
以上の点から,本書に対する筆者の第一印象は,「ゲーム史家がApple IIを題材にして,ひろくうけいれられている通説に対するクリティカルシンキングを教える本」であり「現代の大学・大学院で歴史を教える際のニーズを反映している本」だと思った.
本書で語られる歴史
(この節は著者の立場を説明する「はじめに」の解説なので,早く本の中身を知りたい人は次の節に進んでください.)
本書の「はじめに」では著者独自の立ち位置が説明される.ここはオンラインの試し読みでも読めるが,他の章に比べて難解だ.まずパーソナルコンピュータの歴史にまつわる通説が紹介されるが,どの通説にも疑問が示される.たとえば,
・「パーソナルコンピュータはゼロックスPARC周辺の天才の夢を具体化したものだ!」という歴史に対しては「それはMacinotsh以降だけを都合よく選んでいる」(p.14-15)と指摘し,
・「ベイエリアのカウンターカルチャーの精神が…」という先行書に対しては「東海岸ハーバード大学出身者やノンポリの人を都合よく無視している」(p.15, 23, 第3-4章),「対抗文化だけでなく保守的なこだわりにもアピールしていた」(p.307)と反証をあげ,
・早熟のコンピュータの天才については,大学都市に住んでいた恩恵(p.229)や献身的なホビイストの家族のおかげ(p.229,309),といった教育環境の恩恵を指摘する.
こうして本書は,わかりやすい歴史を「拒絶」する(p.23).そしてこれまでの歴史で見落とされていた事柄を拾いながら,歴史をわかりやすい明快な物語ではなく,わかりにくい複雑な文脈から理解することで,歴史の「解釈の地平は広がる」のだと主張する.この歴史の「解釈の地平」とは何かを著者を具体的には説明していないが,本書の「わかりやすい物語にするだけが歴史の書き方ではない」という提起を踏まえて,技術史・産業史・ゲーム史・セキュリティ史・教育史といった広い分野が活性化することはありそうだ.
こうして本書は従来の歴史観を批判して,それらより望ましい歴史の書き方に向かおうとする壮大な視点から書かれている.そのために,著者が描こうとする歴史はこれまでのコンピュータ史とは異質な「通説の批判の積み重ね」であり「メタ歴史」的なものになっている.それはジョブズのキーノート講演に代表されるわかりやすい歴史(名機の歴史,開発者列伝,創業者伝説,企業史など)を拒絶し(p.16),当時の「人々」が考え,使い,想像していたことに目を向ける(p.21).この「人々」とは単なる大衆市場のことではない.本書には開発者やユーザーのみならず,ハーバード大学ビジネススクール卒のエリートや巨額の資金を投入する投資家,キッチンの中の家事まで含めた「人々」が描かれている.本書が描こうとしているのは,エリートビジネスマンから家庭内労働まで,自ら参加し活動してきた人々の歴史だ.(これは著者だけの方法では無いようだ.本書の後半で「人民史」についての参考文献も出てくる(p.229)).
印象に残る記述
「はじめに」の立場表明のあとは比較的楽に読める.個人的に印象に残った点をあげてみる.
1. 「アタリ・ショック」という言葉が出てこない
本書のゲームの章には日本のゲーム史やコレクターがよく使う「アタリショック」という言葉は出てこない.そのかわりに出てくる表現は「1983年の北米ビデオゲームクラッシュ」(p.143-145, 297-29),「マイコンユーザ向けのあらゆる企業が学んだ教訓」(p.254)といった表現だ.「アタリショック」という呼び方のせいで「アタリ社のカートリッジ式ゲームの話でしょう」と思いがちだが,本書に登場するAppleIIソフトウェア開発者も当初そう思っていた.だが,翌1984年にはあらゆるマイクロコンピュータのコンシューマ市場が成長から下降に転じ,教育ソフト市場までもゲーム市場と同規模の崩壊を起こしたというのは知らなかった(p.254).単にアタリ社の製品展開だけでなく,莫大なベンチャー投資家の動向まで含めたソフトウェア業界全体が失速した様子が本書には描かれている.本書での扱いはやや短いが,複数の参考文献が示されているので興味を持った人はさらに調べることができる.
2. 発明者やパイオニアが説明されない
コンピュータの歴史というと「誰が何を発明をした」といった技術史が入るものだが,本書では何が歴史上初めてだったのかという世界初についての記述が無い.したがって発明者も特許情報も参照していない.これは思い切った歴史の書き方だ.本書は技術の発展をたどる技術史ではないし,会社の外も触れているので企業史でもないし,開発者は多数登場しても彼らが歴史的にどれだけ偉大なのかは触れていない. そして「(略)重要なのはどれか個別のマシンの歴史的な重要性ではなく,むしろその集合的な普及が,ある産業の認識可能な発端を構成したということ」(p.41)だとして,本書は産業未満だったものが産業として見えるようになった発端をとらえようとする.
上記の主張は発明者やコレクターとってはあまりうれしくないが,後世の歴史家が過去を扱う時は珍しくない議論だ.こう書くと「そういう著者は自分の著書は歴史上初の書籍だと主張しているのではないか」という疑問を持たれるかもしれない.なので公正を期すためにつけくわえておくと,著者も自分が新しい発見をしているとは考えておらず,強い主張にはたいてい注釈がついていて,その先には誰が先に言ったかを示してある.たとえば注釈には「人間の発明に関するあらゆる活動に「最初」などというものはない」とか,「ベンチャーキャピタルのビジネスモデルは19世紀初期の捕鯨産業と同じ」という指摘を誰がいつ書いたのかまで示している.
こうして当時の技術的な説明を大胆に省略しているかわりに,本書は「アクターの背景,環境,構造的な優位性に特に注目する」(p.22).たとえば「開発者はこういう高等教育を実施している地域で育った」「プログラマに流通業の経験があった」「親が献身的に教えてくれた」といった背景を伝えている.8bit時代の技術は他分野の参考になるかどうかわからないが,どんな環境の出身者が強みを発揮したのかという見方は他分野にも参考になりそうだ.
3. アーキビスト・アーカイブ情報がすごい
本書の情報源は巻末注に示されている.そして読者は本文から巻末注を調べ,そこで著者が利用した情報源にさかのぼってその解釈を再検証することができるし,著者と同じ情報源から異なる解釈を試みることもできる. だが独自の情報源にもとづいて書かれた学術書の場合は事情がややこしくなる.著者は,読者が請求したら自分が発掘した情報ソースを開示できるようにしなければならない.そこで登場するのが,元情報を閲覧可能な形で集積するアーカイブと,元情報を閲覧可能にするアーキビストだ.
歴史家にとってアーキビストは,史料をアクセス可能にしてくれる重要なパートナーだ. たとえば翻訳された歴史書『インターネットの起源』を書いたハフナーは,取材したARPANET資料を刊行後にInternet Archiveに寄贈して,いまでは史料のスキャン画像やインタビュー文字起こしがオンライン公開されて誰でもハフナーの主張を再検証することができる.そしてアーキビストは史料をスキャンするだけでなく,その資料は誰が保管していたものなのか,その資料には(著者が引用した以外の場所も含めて)何について書かれているかを目録化している.この作業を行なったInternet Archiveのアーキビストの仕事はすさまじく,文書だけでなくソフトウェア文化財までも次々とインターネットからアクセスできるようにしてきた.その尽力により,これまで蒐集家(コレクター)が秘蔵してきた大昔のOS(ソースコードおよびそのエミュレーター),数千のMS-DOSやアーケード向けのゲーム,アタリなど家庭用ゲーム機のゲームがブラウザ上で閲覧できるようになった(英語版エミュレータ上だが). 本書の巻末には,史料だけでなく史料を閲覧可能にしてくれた全米のコンピュータアーカイブとアーキビストの名前が数多く載っている(これだけアーキビストに感謝している歴史書は珍しい).そのきわめつけが最終章の「エピローグ」で,唐突に舞台は現代に飛び,上述Internet Archiveのアーキビストが登場する(p.264).あなたが神か!数千本のレトロゲームなどなんでもインターネット公開してきた神アーキビストが,著者をアシストしているという一種の種明かしが行われる(巻末の謝辞でも別格の扱いになっている).ただし,アーキビスト職の重要性を知らずにエピローグを読むと,アップル信者の集会の怪しい案内人にしか見えない.特に日本ではアーキビストという専門職が社会的にリスペクトされるどころか目に見えない非正規職員扱いされることも多いので,エピローグの意味がわからない人が多いのではないかと思う.(日本のゲーム企業でも,博物館や名作ゲームの開発史を残そうという企業史的な動きはあるが企業内活動に留まっており社会的に認知されていない.) 結末を説明するのは無粋だが,エピローグを解説させてもらった.
この最後の「エピローグ」だけは他の章とは違う紀行文になっていて,かつて熱気に包まれていたマイクロコンピュータがヴィンテージコンピュータになり,パーツが好事家(コレクター)の間で取引される中で,アーキビストが後世に残すコレクションを選び,その導きで歴史家が実物に触れる,という「過去の出来事が歴史になる現代までの道のり」をたどって本書はしめくくられる.
このように,本書は学術的に高度な切り口と全米のアーカイブとアーキビストを駆使して当時の人々が何を考えていたかを明らかにする野心作だ.そして本書を踏まえて,こんどは全体的な歴史ではなく,ゲーム史や企業史といった各分野の通説の見直しが進むことが期待される.
長くなったので前編はここまで.後編では,本書を出す以前の著者のゲーム史の仕事や日本のゲーム開発史への影響,そして難読文に対する正誤表(私案)を示し,本記事からもリンクする予定だ..
