人工知能のための哲学塾・東洋篇 第零夜 開催レポート

人工知能と煩悩

このように、西洋哲学と東洋哲学の違いは世界の捉え方に象徴されています。世界を記号的に捉え、そこに意味を見いだそうとする西洋哲学。しかし、記号化とはすなわち「モノの見え方」に他ならず、人工知能の開発で突き当たるフレーム問題に結実します。そこで人工知能のエンジニアは局所最適型なAIを開発することで、このフレーム問題を人間側で除去する方法論を採ります。「将棋には強いが自動車は運転できない」的な人工知能が量産される背景には、こういった事情があります。

ゲームのキャラクターAIもこの延長線上にあります。ゲーム世界という単純化された空間でさえ、ゲームAIには処理負荷が大きすぎます。そこでナビゲーションマップなどの「世界の記号化」を行い、ゲームに最適化した意思決定モデルを作って、処理負荷を軽減させるのです。しかし、このアプローチでは西洋篇での議論にあるように、ゲームキャラクターが自我を持つことはなさそうです。なにか発想の転換が必要のようです。

業界内外から34名が参加

そこで三宅氏は「記号化を行わずに、最初から人工知能が世界全体を捉えることはできないか」という問題提起を行いました。仮にそうしたアプローチができれば、フレーム問題は解決します。生物は世界と肉体との関係性の中で、各々が異なる認知活動を行い、そこから精神活動や言語活動につなげています。そして世界とは混沌とした情報に他なりません。それでは、生物はどのように混沌とした世界を受け止めているのでしょうか。

ここでモデルとして提示されたのが東洋哲学、中でも仏教における「唯識論」です。唯識論では世界は個人の表層(イメージ)にすぎないと捉え、8種類の「識」を仮定します。すなわち5種の感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)+意識+2層の無意識(末那識+阿頼耶識)です。そして、あらゆる存在が個人的に構想された「識」でしかないのなら、それらは主観的存在にすぎず、生滅を繰り返して最終的に消えてしまうものだとします(=色即是空)。

三宅氏の講演を整理した大山匠氏(上智大学)

にもかかわらず、人間は金銭欲、物欲など、さまざまな煩悩に執着します。唯識論では煩悩を「阿頼耶識から生まれた産物」として、修行を通して捨て去ることを教えます。しかし三宅氏は「自分は煩悩の発生メカニズムにこそ興味があります。裏を返せば、今の人工知能は悟りきった存在で、煩悩がないのです」と解説しました。そして、この阿頼耶識から認識が立ち上がるプロセスを工学的に実装できれば、人工知能のレベルを引き上げられるのではないかと語りました。