SIG-AI人工知能のための哲学塾 第4夜「デリダ・差延・感覚」レポート記事

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ゲームAIの未来を哲学を接線として議論する「人工知能のための哲学塾」。第4夜は「デリダ・差延・感覚」をテーマに3月7日、株式会社Donutsで開催されました。セミナーを主導するSIG-AI正世話人の三宅陽一郎氏は「意識を持つ人工知能を作るにはどうしたらいいか」という命題を掲げ、主にジャック・デリダとジャック・ラカンという二人の哲学者の研究を引用しつつ、さまざまな議論を繰り広げました。

入力・認識・行動という一連のアクションを情報の循環(インフォメーションフロー)でつなぎ、世界とインタラクションを行っていくゲームAIのモデル。「意識」とは無縁の存在のように感じられますが、意外にも「アクション意識(A-Consciousness)」と呼ばれる領域では、幅広く活用されています。ブラックボード・アーキテクチャをはじめとした、一人称視点シューティングなどで用いられている、一連のAIモデルがそれに当たります。

一方でふだん我々が一般的に意味合いで使っている意識……専門的には「現象的意識(P-Consciousness)」については、まだ研究が始まったばかりというのが実情です。理由は簡単で「それでゲームがおもしろくなるのか」の壁が存在するからです。

しかし三宅氏は「人工知能が意識をもつとは、自分自身を認識するということ。NPCの行動に間が抜けて感じられるのは、NPCが自分自身を認識できていない点が原因ではないか」として、人工知能に意識を与えたいと主張します。

それでは人工知能に自己を認識させるには、どうしたらいいでしょうか? 三宅氏は哲学における構造主義の系譜を紐解きながら解説を始めました。

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自己認識の手がかりとなる「差延」

構造主義とは、一見まったく違うもの同士に共通する「構造」に注目して現象を理解しようとする考え方です。傾きを求める微分と面積を求める積分は、本来異なる目的のために別々に誕生し、発展してきましたが、根っこの部分は同じである、などはわかりやすい例かもしれません。このように構造主義の背景となったのは数学的構造で、中でもフランスの数学者集団ブルバギが主導していました。

これが1960年代にはいると人文・社会科学の分野にも構造主義の考え方が広がっていきます。言語学の祖とされるフェルデナン・ド・ソシュール。歴史的な変化への着目が主流だった言語学において、複数言語の共通性を構造的に分析したローマン・ヤコブソン。アマゾン川流域のフィールドワークをもとに、婚姻制度を構造的に分析し、文化人類学に応用したレヴィ・ストロース。精神分析に応用したジャック・ラカンなどです。

もっとも人文・社会科学分野において、すべてを静的な構造のみで記号化し、分析しようとする試みは限界があるとして、揺れ戻しがおきます。これがポスト構造主義で、その先鋒となったのがジャック・デリダです。デリダは第壱夜で紹介されたフッサールの現象学を下敷きに、「差延」という概念を提唱します。この考え方が人工知能における自己認識形成の手がかりになるとして、解説を始めました。

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ゲーム業界人と非業界人が半々という構成

「私は私である」という言い方に代表されるように、人間は誰しも自分自身を対象化できます。これは人工知能にはできない、知性を持つ存在の特徴です。人間は近代以降、成長の過程で自意識を持つようになり、それを「飼い慣らして」(自意識過剰は思春期にみられる現象、すなわち「中二病」の特徴でもあります)、成人すなわち「社会化された存在」となります。自我=アイデンティティの確立です。

もっとも、ここで登場する二人の「私」は、哲学的には同じではないと三宅氏は指摘します。なぜなら自分が対象化された時点で、その「私」は現在の私から見て、過去の存在だからです。鏡に移った私の姿は、光の速さだけ過去の私である、などと考えればイメージしやすいかもしれません。

過去の私・今の私・未来の私。これは同じ「私」という存在がどんどん未来に向かって先送りされていく現象だといえます。これをデリダは「差延」(差異を作りながら先送りすること)と呼びました。知能にとって差延は本質的な存在であり、差延によって知能の継続性と連続性が保証されます。今の私はさまざまな過去の残響が積み重なった存在であり、過去からの継続と未来への委託が現前に紛れ込んでいるともいえるでしょう。

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講演担当の三宅陽一郎氏(右)と、第二部をリードした犬飼博士氏(左)

ここでのポイントは、人間が自己を認識できるのは、自分を記号化・対象化できるから。そしてそこには時間という概念があるからです。

一方で人間には過去と現在の私を同一の存在と認識する力もあります。子どもの私と大人の私では体格はおろか細胞すら異なる、生物学的には別の存在です。それでも自我が破綻しないのは、このおかげです。

そのため差延をもとに検出された「二人の私」を巡る差異は、すぐに結合され、再び差延のプロセスが始まります。このように知能には「差延→差異→同一→反復」による循環構造がみられます。知能には「逸脱しようとする力(アポトーシス)」と「構造を維持しようとする力(ホメオタシス)」を繰り返す二律性があるともいえるでしょう。

人間は言語によって自己を対象化する

さて、差延を手がかりに人工知能に自己を認識させるとして、どのように実装すればいいのでしょうか。ここで三宅氏はゲームAIのインフォメーションフローと差延の相性の良さについて指摘しました。インフォメーションフローでは毎フレームごとに人工知能と世界との間で情報が循環し、人工知能の状態が変化していきます。

つまり既存のゲームAIにおける階層構造をそのままに、過去と現在の差異を検出し、自己認識を行うレイヤーを追加できるのではというわけです。

もっとも差延によって自己を対象化し、再び自己に還元化するレイヤーを構築するとして、その際の記号化はどのように行われるのでしょうか。ゲームにおいてキャラクターの状態は、パラメータや経験値などをはじめとして、さまざまな形で記号化されます。しかし人工知能の知的活動となると、話はまったく変わってきます。

三宅氏はそれを実現するのが言語であり、知性は言語を通して自己を表現すると説明しました。人間も日々の精神活動を言語化し、記述することで、自己を対象化し、自意識を育む習慣があります(いわゆる「日記」です)。日記文学は明治時代以降、近代的自我の形成とむすびつき、日本特有とされる「私小説」というジャンルの苗床にもなります。

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第二部ではグループに分かれて議論を継続

こうした「言語の持つ記号性」に関する研究には、前述したソシュールの「シニフィアン/シニフィエ」という概念があります。シニフィアンとは言葉の音(発音)で、シニフィエとは言葉がさししめす意味や概念のこと。リンゴの場合、「Ri-n-go」という音のつらなりがシニフィアンで、赤くて丸くて甘酸っぱいといったイメージがシニフィエとなります。

三宅氏はソシュールの研究を発展させたラカンの業績から、「シニフィアンの連鎖平面」モデルを紹介しました。ラカンは知性には自由な発話を求める精神欲求があるが、言語化される際にシニフィアンによって制限され、両者が引き裂かれるとしました。「うまく説明できない」「ぴったりした言葉がない」などは、誰しも感じた経験があるでしょう。

実際のところ、ある対象物にどのような語彙を当てはめるかは社会の自由であり、シニフィアンは自然・歴史・文化・社会などによって規定されます。一方で社会を形成する土台となるのも言語です。知性は言語を通して自己を表現しますが、言語によって引き裂かれるという現象は、「知性における構造化と逸脱化」にも通じる、興味深いアイロニーでしょう。これに対して三宅氏は「知性に必用なものはシニフィアンが内在する言語の恣意性を引き受けることだ」と指摘します。

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最後にグループ単位で議論の内容を発表

このように人間の精神活動は言語によって支えられ、それによって意識が生まれると考えられます。これは今のところ人工知能にはない、人間ならではの特徴です。仮に人工知能が差延によって自己を対象化できても、それを記号化する術が存在しないのです。それでは人工知能が発する言葉や、それによって形成される内面とは何でしょうか。そして人間と同じように、言葉によって内面が傷つくことはあるのでしょうか。

現状ではこれは壮大な思考実験であり、それに対する答えは誰も持ち合わせていません。三宅氏も参加者と共に議論していきたいとして、講演を終了。第二部ではこれに加えて、三宅氏が設定したさまざまな設問に対して参加者がグループに分かれ、活発な議論が続けられました。

「人工知能のための哲学塾」シリーズは次回が最終回となります。第五夜「メルロ=ポンティと知覚論」は4月23日に開催予定です。(小野憲史)

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