進化を求められる今日のゲームAI
ゲームAIはゲームデザインと密接な関係があります。NPCの敵キャラクターは人間の良き対戦相手であることが求められます。これはゲーム以外でも同じで、ルンバに搭載された人工知能が愛を語ることはありませんし、そうした機能を求められることも(今のところ)ありません。
しかし、より人間的なふるまいが求められる分野、たとえばMMORPGではどうでしょうか。NPCをプレイヤーキャラクターと錯覚させるためには、どのようなAIが必用なのでしょうか。そうしたAIは従来の延長線上の考え方で実現可能なのでしょうか。代替案があるとしたら、それは何でしょうか。
NPO法人IGDA日本SIG-AIが9月30日、ゲームAI連続セミナー「人工知能のための哲学塾」第壱夜で取り上げたテーマ「フッサールの現象学」もまた、この点に思いをはせる内容でした。
SIG正世話人の三宅陽一郎氏は、デカルトからフッサールへと続く近代哲学の流れを追いかけながら、ゲームAIへの応用について解説しました。会場の株式会社Donutsにはゲーム業界の内外から40人弱の参加者が集まり、講演終了後には活発なグループディスカッションも行われました。
ゲームAIは主観的世界を持ち得るか
ゲームAIの特徴の一つに、AIが仮想世界の中で実際の生物と同じように身体を持ち、自律的な振る舞いを見せる点があります。そこで基本となる考え方が、生物(=AI)が外界から情報を読み取り、意思決定を行い、行動に移すという一連の情報循環(インフォメーションフロー)です。
そして、この考え方を土台にエージェント・アーキテクチャやサブサンプション(階層化)・アーキテクチャといった、さまざまな概念や仕組みが発展していきました。これらは今日のゲームAIを開発する上で、欠かせないものとなっています。
しかし、こうした方法論はキャラクターの外側から機械的に知能を作る上では有効ですが、世界の成り立ちを主観的に捉えて、その中で生物らしい振る舞いや思考を行うAIを作ろうとすると、とたんに行き詰まりを見せてしまいます。すなわちゲーム的な「強いAI」は作れても、人工生命体的なAIを作ることは困難なのです。
その理由はなぜでしょうか。AIが「主観的な世界」を認識していないからです。この問題を解決するには生物が世界を主観的に認識するシステムを解明し、AIに応用していく姿勢が求められます。そこで必用なのが世界の論理的な説明、すなわち哲学的なアプローチです。本連続セミナーも全5回を通して、そうした議論を進めることを目的としています。
5月28日に行われた「第零夜」では、全5回のセミナー概要が示されました。その上で迎えた第一回目の議論でテーマ、すなわち思考の補助線とされたのが、「デカルトの機械論的世界観」と、それを拡張する形で登場した「フッサールの現象学」でした。
デカルト哲学から現象学へ
デカルト哲学を象徴する言葉が、有名な「われ思う、ゆえに、われあり」(コギト・エルゴ・スム)です。デカルトは世界のあらゆる事象を疑うことから始めます。そこから絶対に疑い得ない存在、すわなち「自己」を定義づけます。そして、そこから論理的明証性を積み重ねて、我々を取り巻く世界そのものを定義していきます。なお、ここで「自分」と「世界」、いいかえれば「主観」と「客観」を考える外部視点となるのが「神」です。
これにはデカルトが活躍した17世紀はまだ宗教の社会的影響力が大きく、スコラ哲学に代表される前例と慣習に束縛された思考法が中心だったという歴史的背景があります。そこから脱却するには、どういったアプローチが有効か。それを突き詰めたのがデカルトでした。こうした理由からデカルトは近代合理主義や近代科学の祖とされています(それでも神は残りました。「神は死んだ」と言ったニーチェは19世紀の哲学者です)。
しかし20世紀に入ると、このデカルト的哲学では捉えることが難しい、さまざまな領域が存在することがわかってきました。もともとデカルトが主張した「自己」とは「思惟する自己」のことであり、人間の心身を別々のものと捉えていたからです(心身二元論)。しかしストレスで胃が痛くなるなど、両者には密接な関係があります。精神医学や臨床心理学といった新しい学問分野の登場は、デカルト哲学の限界を示していました。
こうした背景をもとにフッサールが提唱したのが現象学です。この考えは当時非常に新鮮で、デカルトが自然科学を中心にさまざまな学問を生み出す苗床になったように、現象学もまた心理学・社会学・言語学など、人文科学系で大きな影響を与えました。
デカルトが世界を疑うところから始めたのに対して、フッサールは世界の判断を停止する(エポケー)ことで、逆に何も解釈されていない「生のままの世界」と「純粋意識(超越的主観性)」が残ると考えます。なお、自分と世界の関係をモデル化する上で、こうした新しい視座が必用とされたのは、もはやデカルトの時代のように神という超越的存在を持ち出すことが不可能だったという事情もあります。
その上で世界を「志向」して「定位」することで、あらゆる純粋体験や経験が哲学の領域に入るとしました。詳細については避けますが、現象学のポイントはデカルトのように論理的明証性のみで世界を捉えるのではなく、いかなる前提や先入観、形而上学的独断にも囚われずに、現象そのものを把握して記述することで、記憶・経験・嗜好といった、人間の生活全般にまで哲学のフィールドを広げた点にあります。
現象学が拡張するゲームAIの未来
さて、このようなデカルト哲学から現象学への移行は、ゲームAIに対してどのような影響を与えるのでしょうか。三宅氏は社会を現象学的に捉えるやり方は、既存のゲームAIと必ずしも相反しないと言います。
仮にデカルト哲学のもとでカクテルグラスを認識する場合、その結果は「高さ20センチ」「氷と液体が入っている」「温度は5度前後」といった、表層的な認識に留まります。しかし、現象学的なアプローチでは「先日飲んだ別のカクテルに似ている」「グラスの模様が亀の甲羅に似ている」といった、記憶や経験をも踏まえた認識が可能になります。
一方でゲームAIにおけるサブサンプション・アーキテクチャでは、同じ対象を認識する上でも、反射的・具象的な階層から理論的・抽象的な階層へと、知能が階層的に構築されます。その上で「認識→意思決定→行動選択」が並列に実行され、総合的な判断が示されます(サブサンプション・アーキテクチャの例には「Halo」における世界認識などがあります)。これは現象学的アプローチに近いというわけです。
もっとも、これだけでは不十分だと三宅氏は指摘しました。ポイントは「意思決定」のあり方です。現状のゲームAIはいまだデカルト的な世界観に囚われている傾向が強く、現象学的なアプローチで、より多彩な世界を捉えられる知能を構成する必要があります。「外界からの刺激や情報と同じように、記憶や感情などの内的情報に対する作用も、同じように構築されなければなりません」(三宅氏)。
繰り返しになりますが、人工知能やゲームAIは個々の製品やゲームデザインと結びついています。これはデカルト哲学や現象学が17世紀や20世紀の社会背景から誕生したことと無縁ではないでしょう。それでは、現象学的アプローチによって広がりを見せたゲームAIから、どのようなゲームデザインが考えられるか。そうした逆説的アプローチもまた、今後のゲーム業界で求められていくのかもしれません。
*スライドに加えて、講演ビデオの公開も行われました。SIG-AI 人工知能のための哲学塾 第弐夜「ユクスキュルの環世界」は12月3日に開催予定です。(小野憲史)
【参考】