「作る」のではなく「生まれる」人工知能/SIG-AI人工知能のための哲学塾 東洋哲学編 第四夜「龍樹とインド哲学と人工知能」レポート

「空の理論」を支えた仏教の認識論

それでは、このモデルは龍樹が唱えた「空(くう)の理論」と、どのような関係を持ち、どのように拡張されるのでしょうか。そのためには龍樹と、龍樹が確立したとされるインド大乗仏教の中観派、そしてそこから発展した華厳哲学について、詳しく見ていく必要があります。以下、三宅氏は空の理論と、中観派の認識論を紐解きながら解説していきました。

龍樹が唱えた「空の理論」は初期仏教にさかのぼる「非有非無」という考え方を背景としています。「すべての物は、そこにあるわけではなく、ないわけでもない」。より正確には、「あらゆる物事や現象は相互の関係性(=縁起)によって生成しており、確固たる実態としてそこに生成しているわけではない」という意味になります。その上で仏教では、この関係性から逸脱し、無分別智に至ることで人は幸せになれると論じます。

三宅陽一郎氏(SIG-AI)

それでは、こうした認識論はどこから誕生してきたのでしょうか。その背景となったのが、仏陀の入滅後に行われてきた仏教の学問化・体系化です。三宅氏はそこから「世俗有」と「勝義有」という考え方を紹介しました。世俗有とは現実にある物体であり、勝義有とは概念としての意味のこと。壺を例に出すと、物体としての壺は破壊されると破片となり、もはや壺ではなくなりますが、記憶としての壺は残り続けます。物体としての壺は世俗有で、概念としての壺は勝義有となります。

このように中観派では、物体には「知覚される現実」と、「言語的現実・推論的現実」があり、前者は実態で後者は虚構だとします。つまり人間は世界を「ありのままに知覚」しているようでいて、実は頭の中で「自分だけの現象を作り出している」にすぎない。そして、その実態と虚構のギャップが人間を苦しめる原因になる、というわけです。さらに、中観派では物体だけでなく時間さえも、真実の時間と言語(虚構)的な時間の二種類に分けられるとします。実際に楽しい時間は早く過ぎ去るなど、人間の時間感覚は内面によって変化することが知られています。

グループディスカッションのテーマを発表する大山匠氏(上智大学)

この背景にあるのが「言語は物事の本質を現さない」という認識論です。ここから言語によって認識された(偽りの)世界を脱却し、「ありのままの世界」を直接認識することが、悟りに繋がるという考え方が生まれてきます。なお、余談ながら、ここにはソシュールの記号論~シニフィエ・シニフィアン~や、ユクスキュルの環世界との類似性が感じられます。西洋哲学が20世紀になって到達した認識論に、東洋哲学は2~3世紀に早くも到達していたというわけです。