SIG-AI人工知能のための哲学塾 第5夜「メルロ=ポンティの知覚論」レポート記事

【人工知能に身体感覚を与える】

人間の身体感覚の中でも基本的なものに「身体保持感(=この身体はまさに自分の身体であるという感覚)」と「運動主体感(=この運動を引き起こしたのは自分であるという感覚)」があります。私たちは普段、これらを意識することはありません。しかし、この機能に障害を受けると、身体部位失認(特定の身体の部位を指させない)など、さまざまな症例に見舞われます。

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これらは「ラバーハンド錯覚」と呼ばれる簡単な実験でも確認できます。ゴム製の腕を自分の腕の横におき、実際の腕は遮蔽して見えなくしておきます。この状態で自分の腕とラバーハンドを同時につついたり、くすぐるなどしていきます。すると次第に脳がラバーハンドを自分の腕と錯覚するようになります。この状態でラバーハンドに氷、本物の腕にプラスチックキューブをおくと、本物の腕が冷たく感じられる現象が発生します。

これは「氷を見る」という視覚情報と、氷のような物体が腕に載せられるという触覚情報が脳に届いた結果、「氷は冷たいので、身構えろ」という判断が行われ、その指令が腕に届けられたためだと考えられます。この実験から得られる結論は「予測には感覚を調整する機能がある」ということ。すなわち熱い・冷たいといった生理的な感覚でさえ、脳の働きと密接に関係しており、しばしば錯覚させることができるのです。

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ここで三宅氏は「遠心性コピー」という脳の働きを紹介しました。人間は脳から筋肉に出される「遠心性情報」と、身体から脳に送られる「求心性情報」のループ構造でさまざまな動作を行います。人間が手を動かして物をさわるとき、はじめに「腕を動かして物を触れ」という遠心性情報が脳から手に送られます。続いて「物に触った感覚」という求心性情報が手から脳に送られるといった具合です。

しかし、実際にはこの時、脳の特定部位に遠心性情報のコピー信号(=遠心性コピー)が送られます。脳内で身体の動きをあらかじめシミュレーションし、イメージを作るためです。このイメージと実際の動きを比較照合することで、人間は運動主体感が得られるというわけです。「自分で自分をくすぐっても効果が薄い」という現象も、この脳内イメージの存在、すなわち予測された動きだからだといわれています。

また、遠心性情報と求心性情報は互いに調整をとるとも考えられています。優秀なスキー選手は、スキー板を通して足の裏に伝わる刺激から雪の状態を取得し、自然にバランスをとって転倒をふせぐなどの行動を行っています。こうした遠心性コピーがもたらす運動主体感や、遠心性情報と求心性情報の相互調整機能(=感覚調整)は、今のゲームAIに大きく欠けている点の一つです。

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では、具体的にどのようにゲーム中で実装すれば良いのでしょうか。三宅氏は「認識」→「意思決定」→「運動」のループで構成される、既存のエージェントアーキテクチャとの関連性について示しました。遠心性情報と求心性情報のやりとりは「運動」の領域です。これに対して遠心性コピーによる身体のイメージ作成は「認識」の領域でしょう。そして感覚調整は「運動」の中でもかなり低次の部分に位置すると言えそうです。

なお、このように主たるループ処理とは別に、幾つかのサブループを回して相互チェックを行う仕組みは、ロボットの設計では普遍的です。というのもロボットではモータや摩擦係数、部屋の構造といったアナログな環境要因により、AIの計算結果と現実の動作にずれが発生するためです。そのため、常に各階層で状態を確認し、整合性をとる作業が欠かせません。これがすべてデジタル世界で完結するゲームとの違いとなります。

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ここで三宅氏はソニー・コンピュータサイエンス研究所/理化学研究所の谷淳氏が2009年に開発した迷路ロボットの研究について紹介しました。一般的にAIは自分と環境、すなわち主体と客体を分けて処理します。これは哲学史では第参夜で議論された「心身二元論」にも通じる考え方ですが、現代哲学では第壱夜で議論された現象学的視点、すなわち主体と客体を融合して考える捉え方が一般的です。

もっとも、現象学的アプローチによるAI開発は過去に例がありませんでした。これを谷氏らはニューラルネットワークを用いて開発し、迷路ロボットに実装することに成功したのです。具体的にはニューラルネットワークの入力情報に、カメラが捉えた外界の情報に加えて、AIが推測した自己判断情報を盛り込むことで、主体と客体を混合させる力学系を創出。これによって迷路の構造を判断し、出口へと進むロボットを作り出しました。

三宅氏は「谷氏もまた現象学的なバックグラウンドを持つAI研究者で、哲学とAIとエンジニアリングを高いレベルで結実させた」と評価しました。本連続セミナーでも哲学史を接線にAIの可能性について論じられてきましたが、その実装例の一つがすでに登場していたというわけです。これに限らず、今後も現象学的アプローチによるAIが次々に登場してくるかもしれません。