書評『AppleIIは何を変えたのか』: ゲーム史家によるパーソナルコンピュータ史の見直し(後編)

 前編では,本書の立ち位置や見どころを説明した.この後編では,いったん本書を離れて著者のゲーム史家としての活動と日本のゲームシーンの関係について解説する.そして最後に日本における本書の意義と,日本語訳の問題と対策(誤読されやすいポイントの整理)について述べる.

解説: 新世代のゲーム史家をめぐる新たな動向

 著者のレイン・ヌーニーは謝辞にでてくる新世代のゲーム史家で,近年ではGDC(Game Developers Conference)で毎年登壇している(つまり,ゲーム開発者からの受講者アンケートの評価も高い)ゲーム史家だ.そして登壇講演するだけでなく,ゲーム開発者によるゲーム開発者のためのGDCアワード(Game Developers’ Choice Awards)の特別賞の審査員にも名を連ねている.このGDCアワード審査員特別賞の審査員は伝説的な開発者ぞろいで,そのなかに一人だけ大学から現役の研究者が参加しているのは以前から目立っていた.

 これは本書とは関係ない話だが,GDC特別賞は日本とも関わりが深い. たとえば2019年にセガの(故)小玉理恵子がGDCパイオニア賞を受賞したときには,日本のゲーム業界で女性が活躍し,いまでも現場で働き続けていることがあらためて世界に認知された. この受賞を受けて,国内でもパイオニア賞受賞記念インタビューが掲載され,後になって追悼記事が出た時も,彼女の「パイオニア」としての評価が強調されている.アメリカのGDCアワードが日本のゲーム業界やメディアにもつながっている例と言えるだろう.

またGDC2020(この年はオンライン開催)では,著者はGDCパイオニア賞の紹介スピーチも担当した.この年は(本書の口絵と第4章に登場する)ロバータ・ウィリアムスに対して特別賞が贈られ, 長らくゲーム業界から離れていた(つまり,現存するゲーム会社によって語られる歴史には登場しない)レジェンド開発者を忘れないことの必要性を語っているところはゲーム史家ならではの視点だろう.

GDCではこうした特別賞だけでなく,著者ヌーニーが審査員をつとめていないビジネスセッションでも公式の歴史を見直すセッションが登場している(字幕付き公式動画). こうした「舞台裏を含めた開発現場の歴史に光を当てる」という点でGDCは他の開発者会議をリードしており,そこに歴史家が参加しているのは興味深い.

 また著者はゲーム開発史だけでなく,ゲーム史研究全般を底上げする貢献でも知られており,その影響も日本にも及んでいる.著者が勤務するニューヨーク大学(NYU)ではゲーム史専門の学術論文誌『ROMchip』を運営している.この学術論文誌は一般書籍とは異なり,英語の投稿論文に対してゲーム史研究者による査読が行われる.そのためにこの雑誌は日本を含む非英語圏のゲーム史研究者(開発史だけでなく社会史や技術史も含む)に声をかけ,編集委員会(Editorial Board)を組織している.
「でも,英語論文誌では日本のコンピュータ史について書かれていないよね? 日本語で書かれた論文が一番だよ!」と思われるかもしれないが,日本語話者なら日本のゲーム史が書けるわけではない.必要なのは論文の品質を管理するチェック体制だ.そこでこのROMchipは毎年彼女を含むゲーム史家たちがTwitch実況するクラウドファンディングを開催して資金を集めて,その用途の中に「英語への翻訳費用を出す」が入っている.これは論文誌としては珍しい.実際,その一環としてコミケで頒布された岩崎啓眞による同人誌の英語訳を査読・掲載するという挑戦的な試みが今年行われた.しかもただ英語訳するだけでなく,日本では在野の研究者が独自の研究を出版する同人誌(doujinshi)コミュニティがあるという社会背景まで英語圏に伝えるという大きな役割を果たしている. 著者はこうしたゲーム史研究の最前線を引っ張っており,その仕事は非英語圏の在野の研究が世界に伝わる道を切り開いていると言えるだろう.
(ゲーム史の解説おわり)

日本における本書の意義

 さて,ゲーム史の解説はここまでにして本書の書評にもどり,本書が日本に与える影響について述べる. 本書が従来のパーソナルコンピュータの歴史に批判的なのは前編にも書いたとおりだが,本書での批判の対象はすべて日本語で読める(本書の参考文献リストには,日本語版の情報も追加されている). たとえば表計算ソフトVisiCalcの章で「AppleIIが売れたのはVisiCalcのおかげ」という,いわゆる「キラーアプリ仮説」史観をその初期にさかのぼって訂正している(p.78注5).これは日本国内でも流布しており,1990年代にNHKスペシャル番組『新・電子立国』が創業者インタビューをもとにキラーアプリ史観そのものの番組を放送して,いまでも書籍版全国の図書館で読める.当然ながら専門家からは「VisiCalc開発者でなくパブリッシャを無視している」「ハーバードビジネスクール仕込みのビジネスモデルのおかげ」「そもそもMicroChessのおかげ」といった本書と同じ実証的な批判が日本でも行われていた(興味がある人は拙稿もどうぞ).だがそうした指摘は学会レベルにとどまっていたため,本書はそうした専門家の議論が書籍として店頭に並んだことに価値がある.

また,前編で指摘したように本書は「わかりやすい」歴史物語を拒絶するが,それは日本のゲーム史でも参考になる.本書冒頭でスティーブ・ジョブズが自らの写真を大写ししているシーンが出てくるが,確かに「社史」では経営陣に都合のいいことしか語られず,都合の悪いことは語られない.つまり退職したり更迭した人は無かったことにされる(あるいは,歴史研究そのものに協力しない企業もある).これは特にゲーム業界ではよくある話で,これまでゲーム開発では,貢献した人が正しくクレジットされない,会社に残った人が去った人の仕事を自分がやったように語る(その反対に転職する人が同僚の仕事を自分の手柄のように語る),といった不正行為が横行してきた.
これは実証的なゲーム研究の妨げになっているだけなく,嘘を重ねて転職するような不正行為の温床になりかねない.そこで開発者団体でもIGDAクレジットガイドラインを整備するなどして,開発のはじめから正しいクレジット表記を残すように呼びかけてきた.こうしたゲーム開発者コミュニティ内部で続けられてきた開発史の問題を,「公式が言っているんだからそうなのだろう」と信じるしかなかった一般の歴史ファンに届けられたのは,日本における本書の意義の一つだと思う.

訳文について

 最後に翻訳を読む上での注意点を述べる. 本書の翻訳で目につくのは,これまでのコンピュータ史の文献を参照せずに独自の訳を当てているところだ.これ自体は悪いことではないが,もしも同じ出来事を同時代のジャーナリストと後世の歴史家(本書)がそれぞれどのように描いたかを比較したい読者は,訳語を読み替える必要がある. たとえば富田倫生『パソコン創世記』(青空文庫で公開中)で印象的に描かれる「ウェスト・コースト・コンピューター・フェアー(WCCF)」は本書では「西海岸コンピュータフェア」(p.69),その会場となったアリーナ「サンフランシスコ・シビック・オーディトリアム」(再開発前の当時のサンフランシスコのコンベンションの中心地だった)は「サンフランシスコの市民公会堂」と訳されているが同じものだ.

 読者によっては,コンピュータ業界でカタカナで書かれてきた用語も漢字で日本語訳されているのも違和感を持つかもしれない.たとえばコンシューマーソフトウェアは「消費者ソフト」(p.18)と訳され,「ソフトウェアパブリッシャー」と呼ばれてきたソフトウェア通販・流通事業者は「発行事業者」(p.84)「発行者」(p.93, 297)「発行人」(p.113)と訳されている.(なお,昔ながらの出版業界用語を使うこと自体は間違いではない.もともとハーバードビジネススクール出身者が伝統的な出版のビジネスモデルをコンピュータ産業にもちこんだという経緯もある.)これらは必ずしも効果的な訳ではないので,第2版では生成AIを活用して,用語の学習や表記統一をさせるとさらに良くなるだろう.

この他に,評者が気になった範囲の正誤表案を「ページ番号 原文/修正文(注釈)」という表記で並べてみたので参考にしてほしい.
p.11 団標的/代表的
p.13 パソコン/パーソナルコンピューター(p.14) (訳語統一するか省略ルールを説明するとよい)
p.18 アーリーアドプター(p.18)/アーリーアダプター(p.39) (訳語統一)
p.23 それを設計したカリスマ的強引者/それをデザインしたカリスマ的強行者(ジョブズがやったのは設計よりも広義のデザインで,「強引者」は用例が少ないので漢籍を引くなら強行者の方がよいのでは)
p.69 下から8行目「ので」(校正ミス)
p.78 8,9行目「悪名高い」/「名声をとどろかせる」(悪い評判のように読めるので皮肉調で) p.146 6行目「消費社主義」(校正ミス)
p.274 探求できた/探究できた
p.119 彼女はケンのプログラミング能力についても感覚をつかんでいた (何の感覚なのか不明)
p.132 自費発行/自己発行(p.298 注17)(どちらかに訳語統一するか,自費出版に統一してもよい)
p.178 利用者とマシンとの境界を交渉する (マン=マシーン・インタフェースのやりとりのことか?)
p.236 読み込みたくな一人/読みこみたくない人
p.288 注43 完全なビデオ端末エレクトロニクス/ビデオ端末回路完備
p.288 注43 明確にラベル付けされている/はっきり記されている
p.288 注43 p.60/本書p.66 (日本語訳では原著のページ番号が動いた)
p.297 注63 ニコルズ/ニコラス,Nichols/Nicholas (参考文献の著者名と表記統一)
p.307 注13 それがぼくの製品の名前です (ガールフレンドへのジョークに聞こえないが,どう訳していいかは悩む)

訳者あとがきについて

 いよいよ最後の最後,お待ちかねの「訳者あとがき」について.これは試し読みの後半部分で読めるが,実に威勢よく本書のダメなところ(だと訳者が思っているところ)を切ってみせている.
前編でも触れたように,著者は本書で提示する(わかりやすくない)歴史をもとにさまざまな解釈が広がることを歓迎している.そしてこの「訳者あとがき」も歴史そのものについて争ってはおらず,その解釈について不満を述べているので,こういう思い切った解釈が出ることも著者は承知しているだろう.

くわしくは試し読みの後半部分で読んでもらうとして,「訳者あとがき」の解釈と本書評前編で述べた解釈とが衝突しそうなところを読者の参考のためにに書いておく.

「目新しい視点には思えない」「当然では」(p.327)

 これは前編で「大学院の授業をもとにした,教科書らしい書き方だ」という私の評価とは逆に見えるが実は同じことを言っている.教科書には新説は出てこない.前編で述べたように,大学での歴史教育に求められるのは,新しい説を提供することではなく批判的な思考を身につけることだ.なにしろ,いまの大学生にとってジョブズはすでに歴史上の人物であり,パーソナルコンピュータがどうやって作られ語られたかという知識は実社会では使う機会が無い.学生が身につけるべきなのは,企業経営者が功利的に使う歴史に対して,その裏付けとなる史料を吟味する批判的スキルであって,昔のマニアックな知識ではないはずだ.

著者はそれをなんとか目新しく見せようと(略)左翼がかったポストモダン用語

 「訳者あとがき」のこの箇所では著者の言葉の選び方に着目して,思い切りよく批判している.これは歴史の語られ方を批判してきた本書にとっては痛烈な批判だ.

これは一見すると何やら高度そうだが,「資本主義的交換様式」というのは,普通の買い物や取引というのをむずかしく言っているだけだ(p.328)

 これは「交換様式論」という理論だが,目新しくもファッショナブルでもないし左翼(マルクス主義)だけの概念ではない.ではなぜ「資本主義的な交換様式」と書く必要があるのか?

「資本主義的な交換様式」という概念が必要になるのはそれ以前の「資本主義的ではない交換様式」(たとえば無賃労働とか贈与とか)と対比する時だ.本書評の前編で,本書はある活動が産業として認識される発端を捉えようとしている,と書いたが,これは交換様式でいえば,「資本主義的ではない交換様式」が「資本主義的な交換様式」になった発端ということになる.つまり訳者あとがきはこの「資本主義的ではない交換様式」がビジネスになって「普通のお仕事」として残る,という発端に注目せずに後者だけ切り取って「ただの仕事をむずかしく言ってるだけだ」と主張している.それはそのとおりだ.本書をビジネス史として解釈すれば,まだビジネスになっていない発端は無視して「普通の買い物や取引」の話になる.だが著者が目指しているのはビジネス史ではなく「人々」の歴史だ.本書がこれまでの歴史では「仕事」と見なされなかった中流家庭や献身的な家族に注目したり,「仕事にならない道楽」を扱おうとしているのは本書を読む上で重要なポイントだ. したがって本書を「普通の買い物や取引」の話をしているという解釈には危険が伴う.そこで読者には「普通の買い物や取引」以前の領域に注目してほしい.「なかなか仕事の話が出てこないなー」と思わされる箇所は章によって異なり,白人男子によくある趣味だったり女性によるお手伝いだったりするが,いずれも「普通の取引」とは見なされないような活動への本書の目配りに気づくだろう.

各章ではそうした検討がまったくない(p.238) もう少し系統的な理由付けがあってもよかったのでは(p.329

 「まったくない」というのは誇張表現だが,確かに各章の粒が揃っていないのはその通りだ.これは前編でも触れたように,まだ研究者の注目を集めていないソフトウェアを限られたスペースに詰め込んだ戦略(p.280-281)の弊害が出ていると考えられる.これは著者の戦略上の問題だが,そこで読者は「この章で注目している人々は前の章とは違う,今度はどんな人々なのか?」と意識して読む必要があるかもしれない.

カルチュラル・スタディーズ的なレトリックをくぐり抜ければ(p.329)

 こうして書いたところで気がついたが,ひょっとして訳者は本書の書き方を「カルチュラル・スタディーズの書き方」「流行りのスタイル」だと誤読している.前編で述べたように,本書はこれまでの歴史の語られ方を片っ端から批判してその上を行こうとする.これは「メタ歴史的」とも言える態度だが,これをポストモダニズムや現代思想や左翼運動(陰謀論で言われるところの文化的マルクス主義)と結びつけるのは正しくない.なぜならアメリカの歴史学ではメタ歴史はそれ以前からあったからだ.
 たとえば1970年代にアメリカの大学で教えた経験がある柄谷行人は,『メタヒストリー』書評の中で,1960年代以降にさまざまな分野で起こったことが歴史学でも起きていたと述べている.それは歴史学者が(フランス現代思想に依拠せずに)「ほんとうの歴史」「新しい歴史の真実」ではなく「歴史がどう語られてきたか」を分析しはじめたということだ.本書の「はじめに」でこれまでの歴史の語られ方を並べて批評しているのはこうしたメタヒストリーの直系の仕事だと言える.
 余談だが,アメリカにおける『メタヒストリー』の影響は歴史学者の内部だけにとどまらず,一般向けのシリコンバレーの歴史書でも見ることができる.たとえば2017年に日本語訳が出た『世界を変える「デザイン」の誕生: シリコンバレーと工業デザインの歴史』(Make It New: A History of Silicon Valley Design)でも,IDEOでコンサルタントをしている著者が歴史叙述について『メタヒストリー』を参照している.この流れは日本では流行らなかっただけで,日本での流行で説明するのはもったいない.

 本書を「カルチュラルスタディーズ的」だと誤読しやすいポイントはもう一つある.それはジェンダー用語だ.本書の注には資料が詳細に記されていて学生には大いに参考になるが,技術やスキルに対して「男性化」(p.283注41)とか「女性化」(p.310注79)という表現をしている.「技術には性別がないのに,性の概念を持ち込むのはトンデモだ!」と思われるかもしれない.よく読むとこれは性別ではなく性的役割(ジェンダーロール)のことを指しているのだが,日本語では性別と区別できなくなっている.
 例をあげて説明しよう.たとえば「タイピストは女性の仕事」「ハードウェアは男の世界」のように,特定の技術が「男性らしい」「女性らしい」として社会に定着することを本書では「男性化」「女性化」という名称をつけている(これは技術の普及過程を解明するためで,当時の性差別を批判しているのではない.著者自身もマイコンブームの担い手が白人男性だったことについて「人種差別的だったのではない」「女性差別的だったのではない」と念を押している(p.36).) 蛇足だが,この注にも登場する研究者のEnsmengerは『コンピューティング史 第3版』の共著者もつとめる本流の歴史家であり,左翼でも右翼でも使える学術用語として使ってほしい.
 こうした男性化・女性化の知見は過去の歴史にとどまらず,現代の科学にも役立っている.たとえばいま多くの情報系の大学入試では「プログラムをばりばり書ける」といったプログラミングスキルだけでは合格できない(ユニーク入試ではない一般入試の話です). もしも大学入試でプログラミング経験が前提になると「親にパソコンを買ってもらえる高校生(その多くは男子学生)」が多数派になってしまう男性化が起こる.だが実証研究によって,高校でのプログラミング経験の有無はコンピュータサイエンスの成績や高度なプログラミング科目のドロップアウト率には関係ないことが明らかになった(体系的な教育プログラムがある大学での話です).そこで先進的な大学では,プログラミング経験の有無にかかわらず入学者を受け入れ,高度なプログラミングへと進める教育プログラムを開発してきた.
「訳者あとがき」の注釈から脱線して大学入試の話になってしまった.こうしてジェンダーロールの歴史研究の知見は,家庭環境に左右されない,すべての人に開かれた科学の実現にも役立っている.ジェンダー用語を使っているから左翼だと切り捨てるのはもったいない.

おわりに

 本書の日本語訳が出たことで,「後世の歴史家は現代をこう描くのか!」という面白い読書体験ができた. 私は著者のゲーム史家としての仕事しか知らなかったので,きっとゲーム史の論文をまとめた著書になると予想していたので,ある意味期待はずれだった.だが,新しく立ち上げた授業を書籍化するという,ある意味専門を離れた仕事を実現した力量はすさまじい(それは大量の謝辞が示す支援体制のおかげでもある). 日本でも,多くのジャンルで「同時代の物語」から「後世の歴史家の視点」へとつなげる仕事が出る先例になると期待している.